バイオグラフィー


※斜体の年月日は推定です。


モトヤンの漫画と共に

小学時代・・・・・・
   アメリカの色彩漫画本『ジャン・バル・ジャン』を見て歓喜。
  それが現在の出発点となった。この頃はもっぱら『冒険ダン吉』や『ポパイ』
  などを模写していた。
中学時代・・・・・・
   絵物語『少年王者』に熱中。この頃、絵物語の全盛期。貸本屋通いは日課となる。
  柴練や城戸礼の小説等を片っぱしから読みあさる。
高校時代・・・・・・
   絵物語は衰退、悲観す。うさ晴らしにスポーツ(柔道)と水彩画に没頭。
  又、バアヤにつくらせたターザンのフンドシをはいて大いにエネルギーを発散。
  スーパーマンの元祖であるターザンは今でも書きたい物のひとつである。
M美大時代
   漫画の貸本屋向き単行本及び短篇誌が流行。
  デザイン勉強のかたわら漫画を書きはじめる。その頃の原稿料一枚百円也。
  安保騒動に運動がてら出かける。昭和36年頃。
以後・・・・・・
   本格的に漫画で身を立てることを決意。現在の師、横山まさみち氏を尋ねたのも
  この頃。師のユニークなストーリー構成をみっちり学ぶ。
  しかし生活は苦しくアルバイトを点々。又、正確な絵を書く為にスタイル画も勉強。
  ロクすっぽ絵も書かないで美人モデルの顔ばかりジロジロジロジロ。
  実物大のマヌカンの首を手に正確にデザイン。
現在・・・・・・
   単行本で生活をささえながらアメリカンタッチのコミックを研究。マンネリ化した漫画
  界に新風をふきこむのはこれぞとばかり活路をきりひらく。
  F社刊行の『漫画ストーリー』等に発表。


※ 情報提供は西宮市の加藤泰三様です。加藤様、貴重な情報をありがとうございました。(2001.8月入手しました。)
※ 「モトヤンの漫画と共に」(3ページ)は、『殺し屋天使 暗殺指令』に収録。アメリカンタッチのコミックの見本として
 「ある高所恐怖症の死」(5ページ)を収録。


劇画誌『街』への投稿とデビュー
昭和
15年11月11日 満州で生まれる。
34年11月
「脱獄犯人の父」が『街』33号で第3席となる。(第19回新人コンクール)
34年12月 「ほしいなあ」が『街』34号で入選となる。(第20回新人コンクール)
同時に「おれの商売」が第1席となる。
 ※『街』34号は新春特別号。同号に掲載された「ほしいなあ」がバロン吉元の
デビュー作となる。(表紙に「正プロ」の記入あり)
34年12月 『ガン』No.4(第4集)に「騎兵の勇者」掲載。(目次では「騎兵隊の勇者」となって
いますが、作品の扉ページは「騎兵の勇者」のため、こちらを採用しました。)
 ☆ガン・スタジオ推薦新人作品☆ です。「みなさんの「ガン」!「ガン」のファンが
生んだ新人吉元君の西部劇第一回作品! みなさんのガンは今後も出来るだけ多
くの新人を世に送るため、みなさんの作品をお待ちしています。」と目次にあります。
※なんとバロンのデビュー作と同じ34年12月発表の作品です。作品の最後には、
1959.10.24のメモがあります。20ページの作品です。
 なお、『ガン』読者原稿大募集の記事の中には「この本にも読者の方の傑作(特に
ガンスタジオからお願いして画いていただいた中編20頁)が紙面を飾っております」
とありますから、投稿ではないようです。
 また、雑誌の発売はトモブック社です。これで、最初の単行本である『聖書物語』の
発行に至る経過が少し明らかになりました。
35年 2月 「砂浜に狂う」が『街』36号で入選となる。(第22回新人コンクール)
35年3月25日 最初の単行本『聖書物語』がトモブック社から発行。
※衝撃の初単行本です。デビュー作「ほしいなあ」が『街』の新人コンクールに入賞
したばかりなのに、この頃から本格的に描かれていたんですね。執筆に至った経過
などは、ぜひバロン吉元先生に聞いてみたいです。
35年 3月 「お月さま」が『街』37号で入選となる。(第23回新人コンクール)
35年4月 『街』38号に「お月さま」掲載。(表紙に「正プロ 1960」の記入あり)
新人コンクール入選者の言葉                       
 「僕の唯一の友である劇画…僕はこれにもう一人の自分を生かし、自己と読者に何かを訴えるようなものを描きたい。読者に好かれ、ストーリィに勝る登場人物の個性と絵の奥行きを心理的に表現した作品をものしたいのです。これが僕のモットーです。未熟者ながら、大それたことを誇りにしていますが、決してそれを無頓着にほったらかしてはいません。常にモットーとして心に置き、一歩でもそれに近づくために描きつづけ、どこまでも、それに忠実なつもりです。そういう僕の作品が一作でも読者に広く観ていただけることを非常に嬉しく思っています。      (2.12)」
なお、同38号の第24回新人コンクールでは、「ファインプレイ」が入選し、「知ら
ぬが仏」が第1席となっている。
35年6月 『街』の第4回新人特別賞を受賞。(『街』40号 記念特別号)
※受賞者は宮脇心太郎(大阪)、吉元正(東京)の2名。
40号記念特別号の第26回新人コンクールで「黄昏の曲」が第1席となる。
35年8月 42号に「ファインプレイ」掲載。10ページ。(表紙には「正プロ 1960.2」と記され
ている。)
35年9月 第4回新人特別賞受賞第1回作品「第13号室の男」(35ページ)を『街』43号に
掲載。(表紙には「正プロ 1960.7.10」と記されている。)
35年9月 『街 別冊1・2・3』9集に「海と空の世代」掲載(61ページ)。表紙には、正プロ1960
ファイトゲキガの記載がある。(巻末の刊行案内には『街』43号只今発売中、一文字
7集9月30日発売、と記されています。)
※みなさん!海、空の世代!いかがでしたか?ストーリイの中にさらに形容的な筋を
ミックスして若い世代のもつ快活颯爽たる雰囲気を強調してみた作品ですが、そうい
う雰囲気をすくなくとも味わっていただけたら幸いと思います。  −正−
また、このページには、”吉岡正太君を迎えて”吉元プロダクションと題して、学生服
姿の5人のイラストがあります。
35年12月 『街』46号に「青春の疾走」掲載。(40ページ)
36年1月 『街』47号に「新春の曙」掲載。(30ページ)表紙には新春ムードファイトゲキガ
1960.12.5の記載がある。また、同号には新春のあいさつが掲載されており、吉元
正も掲載される。
36年2月 『街 別冊1・2・3』13集に「紺碧の青春」掲載(71ページ)。巻末には、ファイトゲ
キガ 1960.10.20の記載がある。(作品の完成はこちらの方が早いようですが、巻末
の刊行案内に『街』48号、2月7日発売とあることから、2月発行と推定しました。)
36年〜37年 エンゼル文庫発行の『顔』に作品を発表。当時の『顔』は横山まさみちの「独眼探偵」
が中心となっていた。
『顔』27号に「風雪の中の野郎ども」を掲載(72ページ)。なおこの号から横山の
「独眼探偵」の連載が始まっている。
『顔』35号に「我ら健児」を掲載(59ページ)。表紙にはファイトゲキガの記載あり。
『顔』38号に「死に招かれた男」を掲載(45ページ)。
 ※『顔』は39号から怪奇スリラー専門誌になり、横山まさみちの「独眼探偵」は単行
本として発行の予定となっています。『顔』38号の発行日は奥付にありませんが、雑
誌の巻末には貸本屋の貸出日の押印があり、その最初が 37.4.23となっているこ
とから、昭和37年4月頃の発行と思われます。これから逆算すると『顔』27号は昭和
36年5月頃の発行となります。
 ※横山プロ設立の1年近く前に、横山まさみち先生と吉元正先生が共に執筆をし
た『顔』には非常に興味を惹かれます。横山まさみち先生は後期の『顔』の建て直し
に力を注がれたという記述を読みましたが、お二人はすでに知り合いであり、横山
先生が吉元先生に執筆を呼びかけたのか。それとも、『顔』での執筆をきっかけに
親交が深まり、それがやがて横山プロダクション設立にまで発展していったのか、
いずれにしろ、『顔』は興味がつきない雑誌です。
37年5月10日 『魔像』52集の魔像新人杯で「待草枕」により佳作を受賞。作者の住所は東京都練
馬区となっている。



横みちプロへの入門と貸本での活躍

37年2月2日「顔」などで時々描いているのを見かける吉元君というのから、指導してほしいと
  原稿が送ってきた。(独眼日記第7回)
37年2月13日 吉元君から電話。鹿児島から出てきた20才の青年。指導してほしいとのこと。
  漫画家になりたいやつも多い。(独眼日記第7回)
37年3月4日 指導してほしいという吉元君から今日うかがいたいとの電話。午後やってきた。
  鹿児島は指宿の生まれ、20才。過去、セントラルなどで数点出しているだけに、
  絵はなれている。ストーリーもまずよい。ただ、主人公の顔がよくできていない。
  夕方までいろいろ話す。まあ、宮本君よりは多少うまいようだ。『鉄火野郎シリーズ』
  に載せてやることにしよう。(独眼日記第7回)
   吉元くんの単車野郎について
                 横山まさみちプロダクション

吉元くんがはじめてぼくのところへ現われたのはこの短編「単車野郎」をひっさげてだった
まだ絵は出来ていなかった
線も荒いし、主人公や女の子などの顔もなっていなかった
しかし短篇のわりにストーリイはまとまっていたし、絵についてものびる人だと思った
彼は以前にも中、短篇十余本を発表しているが、再出発のつもりでやってみると云ってくれた
           ×    ×   ×   ×
それからおよそ三ヶ月、
その進歩のあとは前頁の絵と、以下本文の絵とを見くらべていただければわかると思います
近作では「高原の牙」「南海の激斗」(鉄火野郎シリーズ波止場野郎に収録)があり、また現在は「炎獣オグラ」という長篇にかかっています
           ×    ×   ×   ×
彼の今后の成長を見守ってくださるようお願いします
37年3月 吉元正、横山まさみちをたずね上京。横山プロダクション設立。誠意とファイトのゲン
コツマークつくる。
 ※横山プロダクションでの活動については、『あぁ青春 特別号 反抗期』掲載の
「これが横みちプロだ!! 〜横みちプロのささやかな歴史」を基に、単行本等の情報
を加えて作成しました。
37年5月 横山まさみち『鉄火野郎第六集 波止場野郎』発行。吉元正「南海の激斗」収録。
今回のゲスト作家紹介

  「南海の激斗」   吉元 正

出 身 地   鹿児島県指宿市
生年月日  昭和十五年十一月十一日

吉元くんは、アクション物を得意とする有望な新人です。絵は描けていてもストーリイがおもしろくない作品が多い今日吉元くんのは、まずこのストーリイがおもしろいという点をかって登場してもらいました。吉元くんも、アクションといってもただガンガン射ちあうだけのものではなく、しっかりしたストーリイのあるものを描いていきたいといっています。
鉄火野郎同様、おうえんしてやってください。
37年6月(?) 兎月書房から志岐博史『刑事と拳銃』発行。吉元正「単車野郎」収録。
37年6月(?) セントラル文庫から『街別冊 1・2・3』第29集発行。吉元正「ドカ弁大将 ふてぶて
しい奴」40Pを収録
37年8月13日太平洋文庫から「炎獣オグラ」を刊行。(加藤様の情報です。)
※貸本としては最初の単行本でしょうか。
37年(?)三和出版から「血の海」刊行。横山まさみちプロ提供。吉元正は「虎鮫船長」51Pを
掲載。他は鬼童譲二「夕焼野郎」と小林しげる「ノーガン牧場の決闘」
37年兎月書房から横山プロ編集の『ダッシュ1(ワン)』発行。同誌のテーマは「殺人狂想
曲」で、横山まさみちが原作を書き、第一楽章が横山まさみち構成、第二楽章吉元
正構成、第三楽章鬼童譲二構成となっている。吉元正の担当した第二楽章のタイト
ルは「吉村正二の告白」で37ページ。また、同誌の作者近況は次のとおり。
    吉 元  正
メキメキ売り出してきた、新鋭
(最新作)
長篇「炎獣オグラ」
中編「高原の牙」
中編「ドカ弁大将」
  ほか
37年9月 7日太平洋文庫から「どてっ腹に一撃」を刊行。横山プロ作品。吉元正のごく初期の単
行本の一冊。
37年9月25日横山まさみちプロ執筆編集、新人登龍門専門誌 『ルーキー』 @を太平洋文庫から
発行。
 ルーキー発刊のことば 横山まさみち
 ルーキー(ROOKIE)新進投手のことです。またアメリカ兵隊用語として新兵・新参者・新米の意味があります。
 従って本誌ルーキーは新人のための、新人による専門誌として企画してつくられたものです。
 何事によらず真剣であることは最も尊く、美しいことです。
 まして創作活動においてはなおさらのこと、一作一作が真剣勝負でなくてはなりません。ぼくは常に一作ごとに失業するかしないかの瀬戸際に立ったつもりでとりくみかきあげています。つまり、ぼくはいつまでも新人のかけだしなんです。
 このルーキーの合言葉は3F、フレッシュ(新鮮)・ファイト(たゆまず)・ファイン(優秀な)にしましょう。
横山まさみち
吉元正は同誌に「サイン」28ページを掲載。
 ※同誌の横山まさみちの吉元正評。「わがプロの斗士たち」から
ファイトのかたまり。その一語につきる。従って豪快なアクションものを得意とする。
「炎獣オグラ」
「どてっ腹に一撃」
なお現在長篇シリーズとして新作「ジャガーマン」を執筆中。
37年10月29日『ルーキー2』刊行。吉元正は「花と短剣」31ページを掲載
37年11月14日太平洋文庫から「ジャガーマン 1」(太平洋文庫 52)を刊行。
37年12月26日『ルーキー No.4』刊行。吉元正は「雄々しき者」35ページを掲載。同誌には「あけ
まして オッス!本年もよろしく」とのジャガーマンのカットあり。
38年1月 9日太平洋文庫から「ジャガーマンA」(太平洋文庫 73)を刊行。
38年1月31日『ルーキー No.5』刊行。吉元正は「命中率99」30ページを掲載。この作品は「ほと
んどせりふのない音で見せる劇画(横山まさみち)」である。
38年5月(?) セントラル文庫から佐藤まさあき『あにおとうと』発行。吉元正「極悪」45Pを収録
巻末に横山まさみち独眼探偵No.9『死亡広告』予告が掲載されています。
38年6月吉元正、鉄火野郎シリーズはじめる。
 ※4巻までは「新・鉄火野郎」であり、原案 横山まさみち、絵 吉元正の記述。セント
ラル文庫。(横山まさみちの「鉄火野郎」を引き継ぐ形であった。なお、横山まさみち
の「鉄火野郎」は兎月書房から第六集まで刊行して、休刊となっていた。)
39年新・鉄火野郎No.4「裸一貫」をセントラル文庫から発行。お知らせのページには次
のように記されている。「この新鉄火野郎シリーズは毎月執筆していたのですが、出
版社の都合でNo.2以後の発行がおくれ種々ご迷惑おかけしました。しかし、このあ
とD「喧嘩街」からはそのようなことのないようにいたします。・・・というのは、前の頁を
ごらんになってお気づきの方もあると思いますが、No.5からは、新鉄火野郎の新をと
り”鉄火野郎”として横山プロから直接発行になるからです。
奮起一番、再登場の「鉄火野郎シリーズ」にご期待、ご声援ください。」
また、モトヤンコーナーで横山まさみちは次のように言っている。
このモトヤンなる奇妙な男もやはり人の子生まれる時は人並に素っ裸だった。しかし二十余年たった今もなお裸一貫にあまんじているところが普通と違うモトヤンたるゆえんである。(中略)
しかし、そこは厳しい勝負の世界にいきる男一匹、それだけの根性はある。
いわばガメツサだ。モトヤンは美校で基礎的な油絵をやり、前衛の位置を守りぬくだけのセンスと技術を身につける為、現在ファッションイラストも劇画と平行してやっている。激しい時の流れが、清流だろうが濁流だろうが、いかなる場合にでもそこに応じて生きるだけの技術にモトヤンはガッツイているのだ。裸一貫、逆様にふっても一円の金も落ちてこないモトヤンだが、そこには生きているという実感と、明日も又絵にガッツクんだという根性がある。(中略)
モトヤンの成長をおたのしみに!!
39年5月横山プロ独立出版開始。
39年8月吉元正の鉄火野郎シリーズもNo.5「喧嘩街」から横山プロ発行開始。なお、他の単
行本の巻末予告では、昭和39年7月11日発売予定となっている。
 ※39年8月は「これが横みちプロだ!!」の記述。発売予告とは微妙な違いがある。
40年「鉄火野郎」No.11「虎と竜」から、原案 横山まさみちの名が消え、吉元正作となる。
   「鉄火野郎」No.10「九死に一生」巻末の横山まさみちの言葉

「鉄火野郎について」
 世の中には不正や悪徳や腹立たしいことが多い。それらのうっぷんをせめて紙面の上においてでも晴らしてやろう、と思って始めたのがこの鉄火野郎シリーズです。もう今から四年ほど前のことだ。
 モトヤンが初めてぼくの所へたずね来たのもこの鉄火野郎を見てであった。その後、この鉄火野郎を出していたT書房がつぶれたため、しばらく休刊のやむなきに至っていたが、ぼくとしても愛する鉄火野郎をこのまま消すにはしのびがたく、といってその頃には、ほかに沢山シリーズをはじめていたので執筆の暇なく、そこでモトヤンに続けてもらうことにしたのです。
 「原案・横山まさみち」という形で・・・・・
 原案といってもほとんどモトヤンにまかせ、ぼくが目を通すという方法をとって来ました。時にはストーリィ創作の相談にのったり、構成に修正を加えたり・・。せっかくモトヤンが描きあげてきたものでも、四十枚、五十枚と描きなおしてもらうこともありました。
 そして、モトヤンにまかせてからこれで第十集。今ではぼくももう安心しきっています。最近ではほとんど描きなおしてもらうところもありません。絵もうまくなり、特に女性やアクション場面等にはどんどん新しさもとりいれ、個性の良き面も成長してきました。
そこでこの十集突破を記念して次号からはぼくの名をはずそうと思います。鉄火野郎を完全にモトヤンにゆずるわけです。もっともストーリィにはうるさい横みちのこと、必ず満足していただける作品にするよう陰ながらつとめます。
 こんごとも鉄火野郎に、モトヤンにご声援ください。
40年7月吉元正「少年の樹シリーズ」はじめる
41年1月横みちプロ、オールメンバー初の短編誌「初恋」発行
 ※”あぁ青春”特別号。吉元正は「散る花咲く花」を掲載
41年1月「鉄火シリーズ」最終巻となる、No.18「死線に立つ男」発売
41年2月吉元正「海の男シリーズ」はじめる。No.1「血の海に死す」を刊行。 
41年6月オールメンバー短編誌第2作「反抗期」発行。吉元正「あぁ友よ」掲載。
 ※同誌には写真、メンバー紹介あり
「通称モトヤン。鹿児島県指宿市出身。やはり海で育ち、船がだいすき。以前に見た映画「白鯨」に強烈な印象をうけ、あんな作品を描いてみたいといってる。それに演したグレゴリィ・ペックのファン。それはオヤジに似てるからだそうだ。短編誌はなやかなりし頃投稿していたが、横みちプロへ入り、現在は「鉄火野郎」と「海の男」の長篇シリーズを執筆中。」 
41年8月 「ショック・シリーズ」始める。 第1話「影に喰われる物語」刊行。
41年11月「美のシリーズ」開始。なお、第1巻「世界一醜い女」は「ショック・シリーズ」として
刊行予定であったが、内容が異なるので新しいシリーズを開始した。
42年「ショック・シリーズ」第5話「黄金のサイレンサー」発売。
42年殺し屋天使 暗殺指令」発売。この作品が、吉元正の横山プロ最後の作品である
と思われる。
黄金のサイレンサー」の主人公、炎竜二が引き続き登場。
「モトヤンの漫画と共に」(3ページ)収録。また、アメリカンタッチのコミックの例として
短編「ある高所恐怖症の死」(5ページ)を収録。
最近のM新聞に日本は二十年後、アメリカを抜いて世界一の消費国家になるだろうと予測した記事があった。全面核戦争が勃発しないかぎり、それはありえないことではない。そして今日においては日本的だとかアメリカ的だとかいうみみっちい国民感情に左右されず世界的な見地に立って考え、行動すべき時が来たといえるだろう。伝統は新しくつくるべきものであって固持するものではない。文化は絶えず新陳代謝を繰返しながら発展するものだ。
しかし漫画の世界においては歴史が浅いだけにまだまだ停滞し安住している趣きがある。我々は文化の一端の流れを担う漫画家として、それを世界的水準にもっていくのが務めだと確信してやまない。
(モトヤン)
安住するな!
前進だ!
時代を突破しよう
フロンティアスピリットで突撃だ!!
※「殺し屋天使 暗殺指令」の発売月については42年4月と推定しましたが、ハンド
・コミックス版『独眼探偵 第3巻 幻の殺意』について、「4月25日に発売したばかり
です」と記していますので、5月中旬頃の発売かもしれません。そのように捉えた方が
商業誌デビュー時期と合っているように思えます。
43年横山まさみち青春劇場『0点ばんざい』に「ついてない日」(31ページ)収録。



漫画アクションへの掲載と雑誌での活躍

42年5月13日 双葉社の『漫画ストーリー』に「白い墓穴」を発表。作者名は吉元正となっている。
42年5月20日 『増刊漫画ストーリー アクション特集号』に「指令ダブル・ブランク」を掲載。
 単行本で生活をささえながらアメリカンタッチのコミックを研究。マンネリ化した漫画界に新風をふきこむのはこれぞとばかり活路をきりひらく。
 F社刊行の『漫画ストーリー』等に発表。
42年5月27日 『漫画ストーリー』5月27日号に『ベトコンの女豹』を掲載。バロン・吉元のペンネーム
を用いる。
42年6月24日 『漫画ストーリー』6月24日号に『ウフルーケニア』を掲載。
42年7月 8日 『漫画ストーリー』7月8日号に『プティ ジャンヌ・ダルク』を掲載。
なお、『漫画ストーリー』8月12日号に『週間漫画アクション』8月10日号が堂々発売、
との宣伝がある。漫画アクション発刊後はバロンの作品発表の場もそちらに移る。
42年8月10日 『週間漫画アクション』創刊。創刊号から10号まで「名のない男」シリーズを連載。
創刊号の表紙は、大藪春彦「名のない男」、脚色バロン・吉元となっている。第一話の
副題は「ダイビング作戦」。同シリーズは10話とも大藪春彦原作。
42年10月26日 『週間漫画アクション』10月26日号(通巻第12号)から「マーベリック 迷子の牛」を
連載。同シリーズは43年3月7日号の第10話まで不定期連載された。
43年3月28日 『週間漫画アクション』3月28日号から「チャレンジャー」を不定期連載。第1話は巻頭
カラーで「スーパー・アクションシリーズ颯爽登場!」とある。(25回シリーズ)
43年 『週間漫画アクション』40号から「レッツゴーゲリラ」を不定期連載。
43年 『週間漫画アクション』50号に「ウイリアムウイルソン」を掲載。
44年1月 2日 『週間漫画アクション』1月2日号(1号、通巻第79号)発売。新シリーズ「スネーキー・
シャラー」No.1「脱獄デー」27ページ掲載。11月号まで連載。
44年12月6日 『漫画オール娯楽』12月6日号に「侵略」32ページを掲載。なお、同誌には当時横山
まさみちが「闇の走者」を連載していた。
44年 『週間漫画アクション』20号から45年7号まで「賭博師たち」を連載。
45年 『週間漫画アクション』9号に「17歳」を掲載。
45年6月 1日 双葉社から「賭博師たち」を刊行。(漫画アクション・コミックスO 130円)
45年6月11日 『漫画アクション』24号(6月11日号)から「柔侠伝」の連載を始める。
46年4月 1日 『COM』46年4月号の「虫通信 NO.4」で、手塚治虫が次期の劇画界を背負って立て
る実力者として、山上たつひこ氏とバロン吉元氏を推奨。
バロン吉元氏は、はじめマカロニウエスタン調のもので、デビューしたときには、たいした期待もしなかったのですが、その後ギャンブルものシリーズで地味な研鑽をつづけ、いまは「柔侠伝」という明治ものをかいていますが、その背景をなす時代考証と、ヒューマニズムにあふれた物語構成とはりっぱなものです。
46年5月17日 『週間少年ジャンプ』5月17日号から「4タロウ1ヒメ」を新連載。少年誌初登場。
はじめて、少年誌にかいたぼくの新連載、いかがでしたか? 神と人間が戦う、スケールでっかい、冒険劇画に、かきあげます。4人の太郎と姫子を、応援してやってネ。 <バロン>
47年1月10日 『週間少年ジャンプ』1月10日号から「おれは竜」を新連載。
47年8月10日 『ビッグコミック』16号(通巻105号)から「復讐師(リベンジャー) 四魔鬼」新連載。
第一話「赤目」は28ページ。
47年 『週間漫画アクション』43号・47号に「鉄牛父ちゃん」を連載。
49年10月31日 早川書房からハヤカワ文庫『ドッグ・サヴェジ〜魔島』発売。ケネス・ロブスン作、野田
昌宏訳。バロン吉元が、カバー/口絵/挿絵を担当した。続いて刊行された同シリー
ズの二冊についても、バロン吉元がカバー/口絵/挿絵を担当。
51年1月 『ビッグコミック』1号(新年特大号)から「西郷伝」の連載開始。
53年4月2日 『週間少年サンデー』4月2日号から「力童くん」の連載開始。19周年記念企画新連
載スタート!!さわやか相撲まんが堂々の登場。(54年5月13日号まで連載)
53年 『ヤングコミック』に「ジャコ萬と鉄」(原作:梶野悳三)を短期集中連載。
54年1月27日 『アクションデラックス』特別増刊1/27号に「やさぐれ馬族」101ページを掲載。
55年5月 1日 『漫画アクション』5月1日号に「日本柔侠伝」最終回を掲載。「柔侠伝」 全(完)
『柔侠伝』を書き続けて
足掛け十年・・・・・・・・・
私の理想とする
男の生きざまを
えんえんと性懲りもなく
綴ってきた

柔らかい侠(おとこ)を描くために
柔侠伝というタイトルを
考え 主人公の姓も柳と
した

多情多感で純朴で
腕力が強く
適当に遊び好きで
陽気で照れ屋で粗こつ者で
女と酒には弱いが
大胆小心の反骨者で
ちょっとつかみどころのない
玉石混淆の男だ

そのような矛盾に満ちた
多面性を有する
人間らしい主人公を
私は描きたかった
 (後略)
55年8月10日 『ポップコーン』8月号から「弧拳(Lone Fist)」を新連載。「第一話 序曲 東へ」は
24ページ。左開きのアメコミタッチだが、全編を筆で描くという大変な意欲作。
56年2月 1日 『アクションデラックス』特別増刊2/1号に「痴漢鉄のメロディ」50ページを掲載。
57年9月 9日 『COMICモーニング』創刊号から「明けの明星」を連載。高橋三千綱作。第1話は、
23ページ。
61年8月20日 双葉社から画集『天女<花蓮>』を発行。
63年11月10日 光輪社から「青春桜花の舞 石川啄木」を刊行。なお、石川啄木は、「柔侠伝」第12
話「都の西北」にも登場している。
平成
元年6月6日 『NEWパンチザウルス』6月6日号に「馬のカクテル」7ページを掲載。
2年10月31日 『角川コミックス』(単行本)として「親鸞」を刊行開始、全5巻。(第5巻は平成3年2月
28日の刊行)
4年2月12日 スコラ増刊『皆 KAI』Vol.1に「山嵐」第一話「血の滾り(たぎり)」50ページを掲載。
サブタイトルは大東流合気武術 西郷四郎伝。
5年6月30日 『トクマ古典コミックシリーズ』の3として「宮本武蔵・五輪書」を刊行。
5年10月 1日 『アフタヌーン』10月号から「小さな巨人」の連載を開始。(平成7年4月号まで)
8年8月25日 中央公論社の『マンガ日本の古典シリーズ』17として「徒然草」を刊行。
10年4月 7日 『コミックアルファ』創刊。「シャイニング」を連載開始。(平成11年2月7日号まで)
11年新春 マンガジャパン事務局発行の 『まんじゃぱ』 Vol.1に「鷹の目を持つ男」を掲載。
11年6月16日 小池書院ひゅうまんコミックから「陰獣」(江戸川乱歩・著、バロン吉元・画)を刊行。
12年4月 1日 リイド社『リイドコミック』4月号から「新柔侠伝」の連載を開始。平成13年4月号まで
連載。
13年10月21日 双葉社『漫画大衆』10月21日号から「毒毒TATTOO」の連載を開始。平成14年
2月19日号まで連載。
14年1月1日 竹書房『近代麻雀』1月1日号から「コンビニ軍艦 コッテウシ」の連載を開始。
3月15日号まで連載。
15年5月20日 『漫画アクション』5月20日号から「三面大黒天」の連載を開始。10月14日号まで
連載。

※雑誌掲載の詳細等については、『作品目録』をご覧下さい。